「歯車一筋 小原富蔵の歩んだ道」本文日本語

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第1話 長男として誕生

人生は、回転している歯車のようだという。
人々はさまざまな境遇、動機で噛み合い、そこに新しいエネルギーが生まれ、伝達され和が生まれる。
朝、太陽は東から地上に昇り、夕、西方に没していく。休みなく続く地球の自転も宇宙との歯車の噛み合いなら、国家は地球との、個人は社会との、これまた休みを知らない歯車の回転である。 大きな歯車、間にはさまった小さな歯車、平歯車、カサ歯車、スパイラル・ギヤ、ウォーム・ホイル―――人生はそれぞれの歴史をさまざまな歯車のようにまわっていく。
小原歯車工業株式会社の創業者・小原富蔵は昭和四十一年七月二十六日午前零時五十四分、安らかにその生涯を閉じた。享年五十九歳であった。
生前、富蔵の就任した公職および役職は、川口機械工業協同組合理事長、同交通安全協会副会長兼理事長、川口商工会議所副頭取、埼玉県機械工業団体連合会長、日本歯車工業会常任理事をはじめ二十二の多きを数える。
五十九年の生涯は、一歩、一歩、歩み続けた確固たる足跡に比べれば、本当に短かいものであった。だが、その歳月のうち四十六年間は川口に住み、三十二年間は実業界に身を捧げ文字通り、さまざまな歯車と噛み合い、その道の発展に尽くした実に尊い一生であった。

明治三十九年十月四日、小原富蔵は父・省三、母・はるの長男として東京市下谷の金杉で生まれた。
ここで明治三十九年という時代を振り返ってみると、前年、明治三十八年に硝煙たちこめた日露戦争が日本の戦勝のうちに終結している。すなわち、日本が近代国家として 世界の列強に加わる礎を作った時代であった。
もう少し順を追ってみると、明治三十八年一月旅順開城、三月に奉天大会戦。五月には東郷元帥がロシア・バルチック艦隊をことごとく打ち破る日本海々戦、米国のポーツマスで「日露講和条約」が結ばれたのは富蔵が生まれるちょうど一年前の三十八年 十月十四日であった。
富蔵の生まれた翌月の三十九年十一月二十六日は満州鉄道設定。翌四十年には米国各地で排日運動が起っている。東洋の一島国から近代国家への脱皮にめざめた日本が諸外国 からその動静を注目されている時期であった。
富蔵の父・省三は下谷の金杉で餅菓子屋を開いていた。母・はるは板橋・西台村の富農の出で、この実家の援助で省三は商売を始めたのだった。
「玉のような男の子ですよ」―――人の知らせで長男の誕生を知ると父・省三は 「よし男の子ならお国のために役に立つ」と嬉しくてたまらなかった。まだ日露の戦勝気分から抜けきれない時代であったからである。
後継も生まれた―――父親としての自覚に目覚めた省三は商売にも本腰を入れた。 「金杉の餅菓子はうまい!」と評判にもなり、商売は順調に伸び、使用人の数もふえ活気にあふれた毎日だった。

第2話 突然の母の死

だが、好事魔多し―――。ふとしたキッカケが人生の歯車を狂わす。人の好い省三が、 ある人にそそのかされ、相場に手を出し失敗したのだ。
何度も手をたち切ろうとした省三であったが、一度狂いはじめた軌道はなかなか元に 戻らない。ズルズルと引きこまれた相場から手を引くことが出来ず事態は最悪のところ まで追いつめられた。倒産である―――。
これも浮き浮きとした戦勝気分、続いて活気を帯びる社会の鼓動が、省三にとっては 裏目、裏目と出た現象だったともいえる。
明治四十三年、省三・富蔵親子にとって、思ってもみない出来事に見舞われた。富蔵が 四歳の時であった。
この年、八月に入って間もなく降り続いた雨は十日になっても降り止まず、ついに豪雨 となって六郷川の堤防が決壊した。
さらに利根川、荒川がはんらん。当時の東京市の下町、本所、深川から浅草、向島一帯 は水浸しとなる。当時の記録を調べると「水かさニ丈八尺(約8メートル40センチ)」と ある。綾瀬川も十三ヶ所が決壊して南足立郡、板橋、志村も一面見渡すかぎりの泥海と化 した。記録によればこの水害で死者男三十四人、女十一人とある。
不幸にもこの女性死者十一人の中に富蔵の母・はるの名があった。
荒川の土手を父・省三は妻の遺体をかついで放心したように歩き、板橋の実家・山口家 まで運んだ。
それは四歳の富蔵にとって豪雨のあとジリジリと照りつける強烈な太陽のように、鮮明 脳裡に焼きつき、一生忘れられない思い出の一コマであった。

第3話 父との別居生活

四歳になったばかりの時に母を天が奪ってしまった。まだ幼い富蔵にとってはあまりにも大きい運命のいたずらであり、大きな試練でもあった。
富蔵はこの日以後、母と呼べる人を知らない。この可酷な幼時体験は富蔵の人生を一変させることになる。
その第一は父との別居であった。倒産後、父は南千住でかもじ屋をやっていたがこれもパッとせず、ある人の紹介で東京帝国大学の付属病院の下足番として就職することになった。
この職業は深夜勤務があるなど時間的に不規則なため、幼い富蔵をそばに置いて育てることができない。従って富蔵は下板橋に住む祖父・山口彦市のもとに引き取られ養育されることになった。
親はなくとも子は育つ。祖父のもとで五歳、六歳と富蔵は順調に成長していった。
当時、父・省三は東京・下谷にある兄の家へ寄宿、そこから帝大病院に通っていた。 下谷と板橋。今みたいに交通手段の発達していない時代であり、父が富蔵を訪れてくるのは年に数回だった。
富蔵にとって父はたった一人の肉親であった。が、いざ「お父さんだよ」と言われると気恥しかった。「お父さん」と大声で呼ぶこともできなかった。甘える術も知らなかった。そこで父の後ろ姿を見かけるとコソコソと逃げ出してしまう子供であった。
反面、小学校に通い始めた頃の富蔵は手のつけられない暴れん坊であった。ただ小学校の成績は良かった。一年生の時は級長で二年生の時も優等生であった。特に算数が得意でいつも『甲』だった。これは後年、独学で独自の”小原式簿記”を編み出し、経営に非凡を才した富蔵の、小さな発芽だったかもしれない。
祖父・彦市はしつけの厳しい人だった。しかし、富蔵はこの祖父の眼をかすめて陰でイタズラのかぎりを行った。
当時の富蔵を物語るエピソードとして隣家の娘さんとのケンカ事件が残っている。
その娘さんは当時十六、七歳。小学校になったばかりの富蔵に比べれば、もはや手の届かない大人の娘さんである。この娘さんに富蔵は、何べんもイタズラを仕掛ける。ある時など娘さんが本気で怒って棒きれで富蔵を叩きつけた。
その痛さが身にしみて、じっと夜のふけるのを待った富蔵は用意したコブシほどの石を娘さんの家の表玄関から「エイ!」とばかりに投げつけた。
「ガチャーン」と大きな音が深夜のしじまを破る。パッと電灯がつく。「誰だ!」「どうした」と家人が起きる。その気配に満足して物かげから逃げる富蔵の小さな姿が発見され、大騒ぎとなった。
もちろん悪事が露見して富蔵は祖父から大目玉をくわされる。
その涙のなか、富蔵の小さな胸にわき起ってくる感情は「お父さん」「お母さん」と呼べる親が手近にいない悲しさだった。
「どうして自分だけお母さんがいないのだ」―――誰か優しく声をかけてくれる人が欲しい。理解してくれる人が欲しい。当時、少年・富蔵が無性に手に入れたかったのは肉親の愛情であったろうことは想像するにやぶさかでない。隣家の娘さんに怒られても、嫌われてもイタズラを仕掛けたのも、ふと見た娘さんに探し求めたなき母親のイメージを感じたのかもしれない―――。
深夜の投石騒ぎも、自分を目立たせたい、みんなの関心を集めたい―――。少年の屈折した心理がおこしたイタズラであったのだ。

第4話 苦労もふきとぶ父との生活

やがて肉親への思慕の情が富蔵の胸で沸とう点を破る日がやってくる。 それは大正四年の八月の夕暮れだった。
下板橋の改札口で「東京行はどこから乗るの」と駅員に聞く少年があった。
不審に思って所持金をたずねる駅員に「九銭持っているよ」と少年は答えた。
その少年こそ、先刻別れた父親のあとを追おうとした富蔵だった。富蔵は間もなく、 失踪に気づいた祖父の彦市に連れ戻され家に帰る。しかし、富蔵は一晩中、「お父さんと一緒にどうしても暮らしたい」と泣き明かした。そのあまりにも強い意志にびっくりした 祖父は、これ以上、手許に引き留めておくことはムリだと判断した。
下谷の伯父の家で父親と生活することが許されたのである。富蔵が小学校三年生の頃だった。
伯父は下谷で当時、米屋と焼イモ屋を兼業していた。やっと父と暮らすようになっても三畳一間で生活する居候の生活である。まして当時は不況が深刻になりつつある頃で伯父一家の暮らしも決して楽ではなかった。
富蔵も学校から帰ると姪の子守り、イモ洗い、米の配達とクルクル働いた。
それはやっと父と暮らせる喜びからだった。また、こうして働いてさえいればもう二度と父と別れる不安がないと幼いなりに考えた期待のためでもあった。
当時の富蔵について従弟にあたる小原金雄氏(前・小原歯車工業㈱専務取締役)は「ウチのオヤジのところに来てからあの人は、昼間からよく働いていました。とにかく働き続けていました。これは後年、本人がしみじみと述懐していましたが、結局、自分は母と早く死に別れ、父親とも一緒に生活できなかった。子供心にも人生はなんといっても経済力が第一という哲学が心の中に刻みこまれた。また世の中、忍耐が大切という教訓をいやというほど身を持って学んだと語っておりました。その哲学、教訓が自分で独立し、会社を起こしたのちに強力なバネとなって役に立ったと申しておりました」と語っている。
いわば富蔵少年の小さな歯車が、社会の荒波と身をもって少しずつ噛み合っていくことになる。
西台の小学校から金杉の小学校に転校して富蔵の成績は少し落ちたが、性格も理由なき反抗が影をひそめて、少しずつ内向していった。が、持ち前の正義感、負けん気の強さは変わらなかった。
近所に安楽寺というお寺があった。ここの息子さんはすでに中等学校の学生だったが、赤ん坊を背中にくくりつけ、子守をしている富蔵をよくからかった。ある時、口論、殴りあいまでになったが、体力が違う上に赤ん坊を背負ったハンデがあっては富蔵は全然、歯が立たない。泣きながら家に帰った富蔵は夜になると丸太を持ってお寺に出かけた。
富蔵には『年下のしかも子守をしている自分がしいたげられる理由がない』という“正義の信条”がある。しかも負けず嫌いの血がカッカと燃える。だが、学校の寄宿舎にいる息子さんはその日も翌日も帰って来なかった。
正義感の強いがんばり屋で、一徹の人として知られる富蔵を伝えるこれも小学校時代のひとつのエピソードである。
体力も強靭そのものであった。小原金雄氏は「まだ、小学生だったのに二斗の米を担いで下谷から王子まで配達したことがありました」と回想していた。二斗の米といえば自分の体重とほぼ同じだ。さすがに富蔵一人では担ぎ上げることができず伯父に肩まで乗せてもらう。そして同じ米を担ぐ伯父の後について黙々と歩いていく。
後年、実業家として成功した要因となる努力、不屈の精神がこの頃からコツコツ鍛えられていった。
しかし、なんといってもまだ富蔵は少年であった。仲間と遊ぶおこずかいも欲しかったし、学用品を買う金も欲しかった。そんな時、富蔵はじっと深夜勤務を終えて帰宅する父を待った。
時計が夜七時、八時と進む。昼間の疲れで富蔵はついウトウトとする。
「まあ、いいや。明日の朝、父さんより早く起きよう」と寝床に入る。時には、父の起床が早く、富蔵が起きた時はすでに父が出勤していることもあったが、眼をさました父を待ちこがれたように「父ちゃん、おくれよう」と声をかける。十銭、十五銭と父はおこずかいを富蔵にくれた。こんな時が、富蔵はなによりも嬉しかった。ただお金がもらえるという実感そのものよりも、父子二人互いに連帯しながら生活しているんだという実感がそこにあるからだった。また父は子供らしく甘えることができる唯一の人物であったのだ。

第5話 川口の鉄工所に奉公

大正八年三月、富蔵は小学校を卒業した。伯父の家にやっかいになり、父と共に三畳一間の生活をしていた富蔵にとっては中学の進学などは夢にも思いつけないことだ。当時としては残る道はただひとつしかない。奉公に出ることである―――。
大正八年という年代は、オーストリア皇太子暗殺事件に端を発し、ヨーロッパ全土、日本まで参戦、五年間続いた第一次世界大戦がパリ平和会議を経てドイツ降伏の形で終戦となった年である。
日本は直接、大きな戦火に巻きこまれることはなかったが、交戦国からの軍需品の注文は増え、また交戦国の輸出が絶えたすきに日本の製品が世界各地、とくにアジア市場に進出、世の中は好景気に沸きたった。なかでも織物、船舶、鉄、機械の生産が急増した。
こんな世の中を考えたのか父・省三は卒業間近くなった富蔵を呼んで「これからは物を作る時代だ。普通の商人になるよりも手に職をつけたほうがいい。川口に行ってみないか」と話した。
省三の説明では川口に小原鉄工所という父の従弟が経営する工場があり、職人も四、五十人使って手広く町工場を営んでいる。川口は東京に隣接した鋳物を主体とした鉄鋼の町だ。そこでしっかりした”技術”を身につけておけば、これからの将来は楽に生活できるというのである。
富蔵は人一倍体力には自信がある。また忍耐力でも人には負けない。「これからは作る時代」という父の言葉に合点がいった。
そこで「うん、行くよ」と簡単に答えた。この一言で、以来四十六年間、富蔵の生涯の大半を過ごすようになる”川口”との運命的な結びつきがはじまる。
富蔵が小原鉄工所の門をくぐったのは大正八年四月二十四日、十二歳の時であった。
当時の川口は”鋳物の町”として知られ、特に大正中期、第一次世界大戦の大正五年頃からは川口町内で機械業者の創立が目立つ、毎年五社、十社と開業していくいわば隆運期で活気があった。小原鉄工所は、その川口の中でも五指に入る優秀工場であり、製品の主力は水道管の穴アケで、その一部として歯車の製作を行っていた。

第6話 厳しい徒弟制度”の中で

「さあ、俺も一日も早く一人前の職人になるぞ」と胸を張って社会人第一歩を踏み出した富蔵ではあったが、目の前にあるものは厳然たる”徒弟制度”であった。
この徒弟制度とは親方を頂点に、一番弟子、二番弟子・・・と年功序列が確立し、弟子は兄弟子の仕事を手伝いながら体験をつむ技術の修業である。
真赤に燃えた鉄魂を兄弟子が鉄槌で打つ。その末端をおさえているのが新入りの小僧の役目であった。これにもコツがあって、ついうっかり鉄槌がはずれると「この野郎!」とばかり腹を立てた兄弟子は焼けた鉄魂をふりまわす。おびえれば「なにをグツグツ」と鉄拳が飛んでくる。兄弟子とはまさに”ムリへんにゲンコツ”と書く存在なのだ。殴られ、怒鳴られて小僧はひとつひとつ仕事を覚えていく。それは辛い修業なのだ。
「もう、こんな仕事はイヤだ」と同じ、小学校を出て奉公に上った仲間のなかでも途中で逃げ出したものも少なくなかった。
しかし、富蔵は「じっと耐え、辛抱すればきっとそのうち道が開ける」と思った。幼い時から重い米を担ぎ、または帰宅の遅い父を待つ体験を積んだ富蔵は少々のことではへこたれない。
食事をするのにも、風呂に入るにも厳然とこの序列はあった。
「ごはんだよ」と声がかかっても親方、一番弟子・・・と続く順番がやっと新入りのところにまわってくると、飯もミソ汁も冷えてしまっている。一日の仕事が終わって、やっと風呂に入れても湯はぬるくなり、アカが浮いている。
しかし、富蔵は持ち前の負けん気で頑張り抜いた。
このころの富蔵について小原金雄氏は「川口に奉公に出てからは毎月一日と十五日が休みで、必ず帰って来てくれました。たいした給料はもらっていなかったはずですが、私にノートや鉛筆を買って来てくれました。人に対する思いやりは小さい時からあった人でした」と語っている。
小原金雄氏はこのころの富蔵についてある鮮明な思い出を持っている。それは大正十二年九月一日午前十一時五十八分、関東平野を恐怖と混乱の極におとし入れた関東大震災である。
「ちょうど一日で休みでしたから下谷の家に遊びに来ていたのです。グラグラとものすごい震動がくるとあっという間に家が倒れてしまいました。富蔵は一瞬のうちに家のハリの下に閉じこめられてしまったのです。その時は無我夢中だったそうですが、その後、強い余震がきて、その揺れかえしでやっと逃げ出すことができた。幸い、近所から出火しなかったので助かったわけですが、あの時、もし火の手があがっていたら、また、
余震がなかったら助からなかったかもしれません…。いま考えてみるとつくづく運の強い人だったと思います―――。

第7話 鉄工所で学んだ人生哲学

小原鉄工所の小僧時代は給料などはなく月にこづかい銭が五十銭。それが三円ぐらいになると一人前の職人になる日が近い。そして一人前の職人になると親方が紋付ハカマをくれ、日給制となる。
今から考えると、いかにも封建的な徒弟制度ではあったが、ここで富蔵はさまざまな事を学んだ。
まず、兄弟子から、殴られ、こずかれ、どなられながら学んだことは”物事、万事、先を見通して段取りをつけろ”ということである。ただ与えられた仕事をばく然と処理するのではなく、次の段取りまで先を読めば飛んでくるゲンコツもない。バ声もないという事実である。これは後年、経営者の立場になってから先を読む判断力をつける基礎になってくる。
また、技術は正確に原理から理解しなくては役に立たないという鉄則である。中途半端な技術を覚えれば、結局、出来上がってくる製品も中途半端に終ってしまう。一時はしのげてもそのうち必ずボロがでて、一番大切な信頼を失ってしまう。
そして、忘れてはいけないのが、”人間関係”である。仕事一途に打ち込むのはいいが、仲間の信用と信頼を受けないと結局人の上に立ってリードする人間にはなれない。
藤井三夫氏(小原鉄工所で富蔵の弟弟子で現在、小原歯車工業㈱で研削作業を担当)は「職人としての技術は親方の信頼の厚い人でした。いつも誰よりも先へ先へと物事を考えていましたね。若い時はそんなに大胆な人ではなかったが、何か事を起こす時には自分一人でやるというのではなく、仲間づくりが非常にうまかった。そして、いつの間にか仲間の先頭に立っていく人でした。また新しいものが好きで、新しい機械が入ると、その機械について熱心に研究する人でした。これはあとになってからのことなんですが、小僧時代にしっかりと基礎を学んだので、古い機械でも改造すれば結構役に立つ。若いころの修業が後年、会社をつくった段階で随分役立つよと社長は話していました」と語っている。

第8話 新しい目標に向かって

大正十五年、満二十歳になった富蔵は兵隊検査を受けた。若槻礼次郎内閣成立のころで世界は軍縮の気運が強かった。富蔵は乙種合格だった。このため兵隊にはとられなかった。
この時に親方から紋付ハカマをもらった。小原鉄工所に入ってから八年間の歳月が流れた。思えばきつい労働に明け暮れた青春だった。このころの富蔵はもうすっかり成長し、落ち着きを備え、立派な一人前の職人となっていた。
一人前の職人となった富蔵の胸に去来したのは”独立”という新しい目標だった。小原鉄工所に入ってまた二年が経過した。
「もう一人前の職人なんだ」という自覚が胸の中にあった。同時になんとか独立したい。どんなに辛くても、どんなに苦しくともなんとか自分の城を持ってみたいという青年らしいふくらんだ夢が、どこか気持の片隅にあった。
「自分が独立したら、こんな具合い仕切ってみる。こんな作り方をしてみる」―――当時、コツコツと仕事に打ち込みながらもそんな考えが胸のうちに去来するのであった。
しかし、なんといっても時代が悪かった。第一次世界大戦が終って、二、三年続いた好景気もシャボン玉のように消えた。
当時の新聞の記録によれば、大正九年の春に反動不況に突入、昭和二年、金融恐慌、二年後の昭和四年にはニューヨークの株価暴落に端を発して世界中が大不況の渦の中に巻きこまれている。
川口鋳物業界では大正七年に新鉄価格がトン当り四百六円のインフレ価格を記録した後、次第に景気は後退し、その後十年間は深刻な長期不況に苦しんでいた。
当時の川口鋳物業界は大手会社の下請けの存在である。大手の持つ技術、設備力との間に生じる数段の格差を職人のキップと腕で補っていたのであった。
それだけに青年・富蔵の「なんとか独立しなくては」という願望も人一倍強かったことはいうまでもないことであったろう 。

第9話 ゆれ動く心の中…

二十二歳を過ぎたころ、富蔵は日夜、激しい頭痛に悩ませられるようになった。
「どこか体が悪いのか?医者に見てもらえ」と親方がいう。
「いいんです。一日休めばそのうち直るでしょう」と答えて様子を見たが、頭痛はさらにひどくなる。結局、親方のすすめで父親の勤めている帝大の付属病院で診断してもらったが原因がわからない。
小原金雄氏は「当時、仕事の休みで帰ってくると頭が痛いとよく言っていました。しかし、どこがどう悪いのかハッキリしない。いま考えてみると一種の神経衰弱。現代
でいうノイローゼではなかったかと思います。仕事に対する欲求不満みたいなものが内向して、だんだんひどくなったのでは」と語っている。
職人として中堅になれば、古い職人と新人との板ばさみになる。また胸の片隅には独立したいという希望もある。二十歳を過ぎれば、自分はどんな進路でどんな家庭を持ちたいかを考えはじめる時期でもある。
「富蔵さんは根が気まじめすぎる人だ。こんな時は”コン”をつめて仕事をするのはよくない。気分転換に水商売でもちょっとやってみないか」とすすめる人もあって富蔵は工場をやめる決心をした。
人生の四季でいえば春を過ぎ、若葉も深い緑になりかけて梅雨に入ったという年頃であろうか。
富蔵は工場をやめて、金杉の魚留という魚屋に奉公することになった。
鉄工場と魚屋―――。またひどく方角のちがう転職であったが、職人を断念するのだったら魚屋で包丁の使い方を覚えて将来スシ屋でもという気持であったのかもしれない。
百八十度の転換をしたといっても、年令的にはもう少年ではない。魚屋といっても店頭で売るだけでなく、仕入れもやるし、注文取りにもでかける。
不思議なことに、魚屋に勤めてからはあのズキズキする頭痛もウソのように消えた。心機一転、出直し人生がはじまったからだ。
谷中、根岸のお屋敷町を根気よく歩いて刺身の注文を取ると二割ぐらいのマージンが手に入った。どこへ行けばどうなるという”カン”も持ち合わせる年令だ。富蔵はここでもこまめによく働いた。
しかし、やっかいなものが富蔵を待っていた。”冬将軍”である。
魚屋という商売は年中、水を使う。手が真赤にハレあがるようなシモヤケとアカギレができ富蔵自身すっかりまいってしまった。
こうして魚屋商売は結局、半年あまりしか続かなかった。

第10話 将来に役立った貴重な体験

「さて、どうしてよいものか」と富蔵は思案にくれた。そして「旅に出て考えてみよう」と東京駅に向かった。今でいう”蒸発”である。
懐中には二十円の金があった。なんとか半月くらいは暮らせる金額である。
「名古屋まで行ってみよう」と切符を買った。
別に名古屋へ着いても先の行き所があるわけでもなかった。しかし、富蔵には鉄工所で鍛えた”腕”がある。
見知らぬ土地で通用するか、どうか。一発勝負の心境だった。
当時の東海道線は現在の新幹線で名古屋まで二時間あまりというわけにはとてもいかない。急行でも丸一日かかってしまうのだ。
なれぬ長旅にウトウトして、ハッと気がつくと「浜松」「浜松」と駅員が連呼する声が聞える。
「待てよ。浜松も川口と同じく工業の町だ」と気がつくと、瞬間的に手荷物を持ちホームに降りた。
丸一日「仕事はないですか」と聞いて歩いたが、恐慌のショックで大騒ぎをしている昭和の初期だ。同じような失業者が町にあふれていた。
「ダメだ。とても浜松では職にありつけない」
富蔵は最初の目的地・名古屋に向かった。
名古屋は浜松、川口に比べれば大都会という感じはしたが、なにぶん初めての土地で方角さえよくわからない。
市内の木賃宿に泊り、朝から夕方まで職探しをした。一日、二日と過ぎていく。二週間たっても職はなかった。最初にもってきた金も日一日と減る。とうとう無一文に近い状態になった。
「東京に帰る金もない。さて俺の運命もこれまでか…」と富蔵は名古屋市郊外の田んぼのアゼ道にうずくまりながら、沈んでいく太陽を放心したように眺めていた。
その時だ―――。
「いったいお前さん、なぜ?そんな所にボンヤリしているのかね」と背後から人声が聞えた。見ると職人風の男だ。
富蔵は川口のこと、魚屋のこと、なぜ名古屋まで来てしまったのかを一気にその職人に打ちあけた。ワラでもすがりたい心境だったのである。
「よくわかった。お前さんに腕があるのなら俺が世話してあげよう」
「ホントですか!」
「ああ、心あたりがある。まかせておけ」
捨てる神あれば、拾う神ありとはこのことだ。なにしろこっちは明日は無一文になる身の上。まして見知らぬ土地で見知らぬ人がかけてくれた情は人一倍、身にしみる。
「有難うございます。これで助かります」
深々と頭を垂れる富蔵の胸にぐっと熱いものがこみあげてきた。本当に嬉しかったのだ。
男が連れて行ったくれたのは市内の町工場であった。富蔵は例の頭痛の病気以来、約七ヶ月もハンマーを握っていない。心の中は仕事をしたい気持でウズウズしている。まして喰うや喰わずの瀬戸ぎわだ。それに親切にしてくれた男への恩返しの気持もある。また、川口の小原鉄工所で鍛えてきた職人として恥かしい仕事はできないという意地もある。
富蔵の仕事は鮮かであった。
「今度東京から来たという男の仕事をみろ。実にキチンとしたもんだ」 「あれは腕がいい本物だ」-――たちまち富蔵は周囲から驚きと賞讃の眼でみられるようになった。
ここの工場で富蔵は日給一円六拾銭で働いた。小さな工場だ。十日あまりで臨時の仕事は終ってしまった。しかし、職人の世界は腕さえしっかりしていれば喰うには困らない。
「評判は聞いたよ。ウチでは一円八十銭出すから働いてくれ」とすぐ次の仕事が舞いこんできた。
こうして名古屋では一年間、数ヶ所の工場で働いた。

この一年間の収かくは大きかった―――。
なにしろ人間、落ちるところまで落ちてしまえば「どうにでもなれ」と腹がすわるものなのだ。
特にまったく見知らぬ所で、”腕”を買われて仕事をしたという自信は大きかった。また、他人のメシを一年間、渡り歩いて喰った体験もたいへん勉強になった。どんなことでもドンと来いという自信もついた。
水野昇(小原歯車工業㈱係長)
「私は先代社長の最初の弟子。腕の確かさは見事なものでした。”親方”と呼ぶにピッタリな人でバリバリ先頭に立って、仕事をこなしていました。新入としていろいろ教えてもらった」と語っている。
そしてなにより富蔵の人生に幸運だったのは『やはり俺は鉄とはもう一生、離れられないのだ!』と自分のこれからの進路を悟ったことである。他人の中で今までのことを振り返ってみると「自分はなぜ少しばかりのことでクヨクヨ悩んだのかバカバカしい気がしてきた。
生まれかわり、再出発する決心が真底から沸いてきたのである。
しかし、この一年余の失踪は父親、友人、仲間には随分と余計な心配をかけた。
小原金雄氏は「突然いなくなり、本当にビックリしたし、心配しました。不況の時代でしたので、いろいろ恐ろしい話があった時で、”人買い”にあったのではないか、どこか“タコ部屋”に閉じ込められているのではないか、”北海道の炭鉱に売られたのではないか”と、みんなでウワサしながら心配しておりました」と当時の思い出を語っている。
工業の盛んなドイツには十九世紀、ある一定の年令に達すると青年職人は放浪の旅に出る習慣があった。見知らぬ土地を見聞しながら”他流試合”で腕を磨く、いかにもドイツらしい合理的な考え方である。
日本にも板前さんの世界に現在でも、包丁一本で修業する習慣がある。わずか一年ではあったが、富蔵はこの制度と同じような体験をしたのであった。

第11話 再び川口に戻り職長に

しかし、この頃、富蔵の居所をやっと知り得た父親から「病気も直ったのならぜひ東京に帰ってこい」という手紙が再三、再四届くようになった。
なにしろたった一人の肉親である、健康にもなった。自信もついた。こうなると名古屋に踏みとどまる理由がない。
「よし。また川口に帰るぞ!仲間とともにバリバリ働くぞ」と富蔵は決心した。

第12話  念願の独立

こうして富蔵は再び川口の小原鉄工所に帰った。空白ではあったが、誰の目から見ても彼は一まわりも二まわりも人間的に成長していた。
働きぶりも違うし、親方、仲間からの信望も厚い。
富蔵は職長となり、三十歳まで小原鉄工所で働いた。小僧として入ったのが十三歳であるからすでに十七年間の歳月が流れたことになる。
昭和十年一月十三日、富蔵は念願かなって独立、川口市錦町に小原歯車工所を創立、歯車の製造加工を以来、一貫して営むことになる。
当時の世相は、昭和六年、満州事変がほっ発。軍需費の増加で産業界は活気があった。特に重工業が盛んになると景気は、全産業に波及効果をもたらすものだ。軍需景気で特に機械工業は活気があった。
当然のことながら川口も工場も増え人口も多くなった。昭和八年四月一日、当時の川口町は横曽根村、南平柳村、青木村と一町三村が合併。人口四万五千五百七十三人の “川口市 “が誕生。初代市長に岩田三史氏が就任。翌九年には川口町駅が川口駅と改称。また、田中春蔵氏らを中心に川口機械工業組合も発足した。(川口市役所発行・川口小史より)
川口も”鋳物の町”から次第に工業都市へと成長していったのだ。
富蔵が独立を決意したのは、そんな時の流れに敏感であったからだけではなかった。当時の富蔵は三十歳。職長として周囲の信望を集めていたことはすでに書いた。
親方も目をかけ、可愛がってくれこの点でも不満はなかった。
ただ、”一生の働き場所”として将来を自分なりに考えた時、果たしてこのままでよいのだろうかハタと考えるケースが目立ってきた。
またもうひとつ、富蔵自身の家庭の事情もあった。
富蔵は二十七歳で結婚し、父と共に赤羽に住んでいた。富蔵は朝まだ暗いうちに起き、弁当持参で川口まで電車で通う。一日の仕事が終わり、明日の仕事の段取をつけて帰ってくるのは夜十時を過ぎる。つまり一日中、働き続けてもなかなか暮らしがラクにならない。
「これはなぜだろう」と自問してみる。
そこでたどりつく結論は「どうせ毎日、仕事に明け暮れるのなら、給金取りをやめ、独立しか自分の生きる道がない」という結論であった。
そこで親方に「恩義のある事は十分承知しているのですが、わたしも男としてここらあたりが勝負どころ。独立してやってみたい」と胸のうちを告げた。
了解をとると同時に川口市錦町の尾熊鋳工所の一隅を借り、そこを工場とした。工場といってもたった五十平方メートル(十五坪)。中小の工場の多かった川口でも最も小さい部類の工場である。動力台と機械を月三十円で借り、妻とともにそこに住みこんだ。
「やっと自分の城ができた」―――。
富蔵は感無量であった。しかし、とてもゆっくり満足をかみしめる余裕などどこにもない。機械を借りた三十円さえ、自己資本ではないのだ。
それは思案の上、仕事を出してくれるお得意さんをまわり、前払いという形で出してもらった借金だった。
それでも富蔵の誠実な人柄を見込んでお得意さんが五十円を貸してくれた。結局、この五十円が元金となり今日の『小原歯車工業株式会社』の礎石となった。
旋盤など設備を購入し、職人を二人雇うようになった。
さて、こうなれば生きるか死ぬかである。富蔵にはもうかばってくれる親方もなく、給金を出してくれる工場もなく、あるのは借金だけである。
「背水の陣だ!」とばかり猛然と働いた。
当時の小原歯車は工場が消灯するのがいつも深夜十二時過ぎだった。朝も早い。いくら独立して今度は自分が親方になったのだという自覚があってもこんな生活を年中続けるとさすがに睡眠不足と過労で頭がボーっとしてくる。
狭い工場だ。ついフラフラすると目の前に旋盤があって、腕が切り落とされそうになる。
「いくら根をつめても生命と取りかえては元も子もない」とさすがの富蔵も一週間に一度、日曜は夜五時に仕事を止めて床につくことにした。
こうして富蔵は二年間、必死になって働いた。時流もうまく彼を助けてくれた。当時は富国強兵の時代であった。軍部の内政介入から軍人内閣の成立。それが昭和十二年七月、日華事変のぼっ発でピークに達した。国内の工業生産は軍需製品に集中されていく。
働けば働くほどお金になり、仕事もあった時代だったのだ。


第13話  需要を先取りしたアイデア

昭和十二年、小原歯車工所はさらに発展する。
百四十三平方メートル(四十坪)の新工場を作ったのだ。これで富蔵は借家ではなく名実ともに”自分の城”を持ったのだ。工作機械も増え、従業員も創業時の十倍、二十人と多くなった。
これは富蔵が時流に乗り、黙々と働き続けたからだけではない。現在でいう”アイデア”が見事図に当ったからだった。
そのアイデアとは旋盤に使用する替歯車へ着目したことだった。旋盤は工作機械の中でも最も多く使われ、また重要な機械であった。特に世の中が軍需製品中心に製造がはじまると、必ず旋盤の需要が増大する。
したがって川口市内でも旋盤を使用する工場が多かったが、当時の旋盤に使用する歯車の”規格”がなかった。六尺旋盤では五等級のチェンジが出来、しかも最低二十枚の替歯車が必要である。しかし各々の工場で使うこの替歯車は規格がなく、マチマチなのだ。
「これはムダなことだ。どこで使われる旋盤にもきちんと合う替歯車の必要性があるはずだ。規格を統一してセットにして売れば、どこの工場でも欲しがるはずだ。ひとつ、うちの工場で規格化した替歯車(チェンジ・ギヤ)を製作してみよう」と考えた―――。

 “KHK標準歯車”の歴史がこの時に事実上スタートしたのである。

小原金雄氏は「旋盤用替歯車を一セット二十三枚として売り出しました。このアイデアはまさに画期的なものでしたね。ともかくそれまでは歯切加工して各自、手間をかけて製作していたものが、ウチのチェンジ・ギヤだと欲しい時にすぐ手に入る。売れに売れましたね。前金で欲しいと頼んでくる人も多くその評判はたちどころに広まっていきました」と述懐してくれた。
昭和十二年、十三年、十四年と富蔵の工場は飛躍的に伸びていった。
ここで当時の社会状況を再び振り返ってみると、このころの日本は軍国主義一色にぬりつぶされていく時代であった。
昭和十一年、急進的な青年将校が陸軍の一部を率いて反乱を起こし、政治家を暗殺する事件が起こる。有名な”二・二六事件”である。この事件以後、軍部が政治に介入。非常時と称して軍備を強化していった。
戦争だ、軍備だというかけ声は当時の生産機構まで次第に一変していった。企業に対して十三年一月に軍需工業請負法が発動され、工場、事業所管理令が公布。さらに四月に入ると国家総動員法が敷かれ、全国民が戦時体制へ追いこまれていった。
昭和十四年に第二次世界大戦がぼっ発。同年九月に機械設備制限令を施行して、中小の工場まで機械設備を禁止され、国から管理されることになった。
こうなると軍需工場でないと工場でなくなるという感がある。せっかく築いた事業が軌道に乗り、さあこれからが経営者としての腕のふるいどころだという時期に戦火があがったのである。

第14話  戦火をさけて工場を疎開

富蔵の工場も軍需以外の仕事が減って、受注の数が目に見えて少なくなった。
昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃で太平洋戦争の火ブタが切って落とされた。
「こうなっては軍需品にすべての仕事を切り替えてしまうしかない」と富蔵は転換のハラが決まった。受けた仕事は小原金雄氏の話によると「陸軍の飛行場などの建設に使用する ロードローラーの歯車の仕事。それに海軍の砲弾づくりも行いました。命令通り製品をつくり納入すればよい仕事でした」とのこと。
最初の戦勝から一時は日本が優位に進めた戦局もガダルカナルの一敗を機に、アッツ島玉砕、比島上陸、硫黄島玉砕と敗色が日増しに濃くなっていった。
「進め!一億火の玉だ」の時代である。軍需機械工業の軍需化率が七十五%を超える時代であった。
当時の川口の鋳物、機械業界、営業面では親会社を通じて軍監督下におかれ、管理面でもさまざまな規制を受けていた。
そして、十九年七月、サイパン島が落ちると関東地方は連日のようにB29の空襲をうけた。当然のように川口のような工業地帯は格好の目標となる。
民家、工場の疎開が開始された。
「どこかに工場を移さないと危ない」と考えた富蔵は、真剣に疎開地を探した。
川口市内から四キロほど離れた所に根岸というところがある。
低い山が連なり、そこへ穴を掘るとちょうど半地下室の工場になる。ここにさっそく疎開工場の建設にとりかかった。
山の斜面を切り崩して穴を開ける。その穴を少しずつ大きくしていって土砂、機械運搬用のトロッコを敷く。さらに奥にバラックの工場を建てる。機械を運び入れる。
そんな段取を決めたが、「ガソリン一滴は血の一滴」といわれた時代だ。重い旋盤などを輸送するにもトラックがない。そこで馬と馬車を買ったが、その作業はなかなか進まない。
当時の模様を柳川利勝氏(小原歯車工業㈱営業課長)は「ほぼ九部通りでき、ローソクのランプから電線をひいて、明日から仕事が出来ると、オヤジさん達が張り切っていた日が八月十五日、”耐えがたきを耐え…”の陛下の玉音放送を聞いた日」と記憶していますと、少年時代のかすかに憶えている印象をこう語っている。
富蔵は全身から力が抜けていくようなショックを味わった。日本が敗れたというみじめな気持もあった。これからどうなるのかという不安もあった。しかも少々あった貯金も工場の疎開につぎこみ、寝食も忘れ、身も魂も使い果たしたのだ。
ただせめてもの心の慰めは「これからはまた好きなものを作れ、自由な競争の時代になる」ということだった。
気を取り戻した富蔵はたった一棟、川口の錦町に残った工場に再び運び返した。そしてありあわせの材料で、農器具や日用品を作って販売、戦後の急場をしのいだ。

第15話  歯車専門メーカーの意欲に燃えて

こうして戦後の混乱期をしのいでいるうちに、兵隊にいっていたベテラン達も一人、二人と工場に帰ってきた。
「これで人手も揃った。もう少し経てばまた、歯車が作れる。そのためには何でも作って頑張ろう」と富蔵は従業員を励ました。ブレスト、フィゴなども製造した。物不足でなんでも作れば売れる時代であったから、製品はどんどん売れ、回復も早い。
昭和二十二年四月に個人会社から法人組織(小原歯車工業株式会社、民生機械株式会社、日興機械株式会社の三社)を設立し、その代表取締役に就任した。
もうこの時は敗戦のショックもなかった。再び嵐の中を突っ走る気力と自信が蘇ってきた。農器具類の生産に見切りをつけたのは昭和二十四年だった。昭和二十五年三社あった会社を「小原歯車工業株式会社」一本に統合。

いよいよ歯車一筋の経営に専念する条件が整った。―――

この年に朝鮮戦争がぼっ発。戦後の混乱期のあと、いわゆるドッジラインの財政のしめつけによりデフレの様相が厳しくなっていた。その時期だけに”朝鮮戦争”はそのピンチを脱するカンフル剤の役目を果たした。
新しく生まれ変わった小原歯車工業にも、ひとつの重要な転換期が訪れてきたのである。
昭和十二年、チェンジ・ギヤに着目して以来、富蔵が念願し続けたのは「川口で使う歯車は全部自分の工場で生産したい」ことである。
この構想は戦火により一時、中断しなければならない羽目になったが、いま再び好機が訪れてきたのである。
そして当時、四十歳と働き盛りの富蔵の夢みたのは、もう川口という特定地域の需要を満たすだけでなく、関東一円そして、全国的に市場を広げることであった。
それには発想の転換と同時に、生産設備の近代化、量産体制、製品の高精度化、均一化、ローコスト化等々、解決すべき課題もまた山積していた。
稲田巧氏(小原歯車工業㈱常務取締役)は「わたしは前の会社で外注担当をしていました。そんな時、先代の社長からチェンジ・ギヤの実績をもとに、もっといろんな歯車を自社製品として作って販売したい。協力して欲しいと声をかけられ二十二年に入社しました。前の専務(小原金雄氏)と一緒に都内の工具屋さん、卸問屋さんまわりを毎日しました」と語っている。
さらに「設備をよくするために、昭和二十六年米国の対日援助資金の借入を申請しました。その借入の手続きが困難で、たしか当時の金額で八十万円ほどだったと記憶していますが、おりるまで約一年かかりました」と語っている。

第16話  KHK標準歯車の誕生と拡大

昭和二十六年、現在の仲町、本社工場に鉄骨工場を建設。旋盤用チェンジ・ギヤのほかにKHK標準歯車の製品化を計画。
特に三十年から第一次五ヶ年計画を立て、本社工場内に新工場の建設準備にとりかかる。
さらに三十五年からの第二次三ヵ年計画で、合理化計画の一環として、一億五千万円の設備投資を行う。同業他社に先駆けて新鋭歯切設備をつぎつぎと導入、また三十九年には大型ホブ盤などを購入、生産、受注体制の強化をすすめていった。
この間、旋盤用D・P平歯車のほかに「KHK標準歯車」として、平歯車、カサ歯車、ウォーム・ホイールを製品化。市場に送り出すとともに代理店販売制度を三十七年に敷き、全国的な販売ルートを確立していった。
稲田巧氏は「はじめはKHK標準歯車といっても、取扱店の人たちがピンと来ず説明するのにずいぶん時間が掛かりました。私は営業担当として焦りました。先代の社長は、一旦任せたら部下をトコトン信頼する人でした。それだけに社長の持論であった、大企業、中小企業の仕事各三分の一、自社製品三分の一という営業方針を一日も早く築きあげたかった。KHK標準歯車が本当に市場に浸透していったのは昭和三十二年以降からです。
販売店さんからの信頼を受け、平歯車、カサ歯車、ウォーム・ホイール以外に種類も増えていきました。
製品開発の方法は、いろいろ注文を受ける品物の中から市場の動向を探り、どんな製品をユーザーが欲しているか調査、研究。その中からあれこれ検討を加え、これなら自信をもっていけるという製品を市場に流してゆきました。その発想の原点はあくまでチェンジ・ギヤの着想からでした」と語っている。また、米原秀晃氏(小原歯車工業㈱製造部次長)は「昭和三十二年、私が入社した頃は、設備もまだ中古品が主体でした。KHK標準歯車が市場に浸透すると共に、次第に新しい機械、精度の良い設備が整ってきました。
唐津製作所のギヤシェーパ、日本機械の二十六インチホブ盤、樫藤鉄工のKR600など、今ではたいしたものではないが、当時としては大変な設備でした。
先代の社長は”自分が責任を持つ”と言って、とにかく前向きの姿勢で新しい設備の導入を計りました。設備の導入は、常に最高のものを入れる。それがメーカーとしての”信頼性”を高めるという考えがうまれ、今日のグリーソン社の”コニフレックス№104””ハイポイドジェネレーター№108”そして、マーグ社の ”SD32X”やライスハウエル社の”NZA研削盤”の導入等、世界最高級の設備を入れる元になっています」と製造担当者として先代社長の当時の英断を語っている。
つぎつぎと取り組んだ生産設備の充実とKHK標準歯車の開発―――。小原歯車工業は専門メーカーとして次第にその地位をゆるぎないものとしていった。

第17話 戦後の歯車業界

ここで戦後の歯車業界と小原歯車工業との関連を富蔵自身が記した記録(昭和四十一年四月発行・埼玉県指定標準工場の社長が語る『我が社の中期五ヵ年計画』より)より振り返ってみよう。
小原歯車工業が歯車専門メーカーとしてゆるぎない躍進をなぜなしえたか――― その一端を知るためである。
歯車には、特に大企業はない。従ってすべてが中小企業となるが形態から
①歯車加工のみを主体として生産している
②変速機、減速機を主体として生産している
③全ての材料から完成部品として一貫して加工している
以上の三つに分かれる
小原歯車工業の場合①の項にある。
つまり歯切加工を主体としているため一般産業の下請加工メーカーである。このため経済変動によって受注量が増減する。
小原歯車工業の場合は三十三年頃からの鍋底景気、岩戸景気、高原景気によって生産高が伸び経営資本が増加した。しかし、本来が受注産業である。
そのため生産計画は、短期はもとより、長期の展望がなかなか難しい。

先代社長・小原富蔵が経営者として優れていた点は、チェンジ・ギヤーのアイデア、それを生かしたKHK標準歯車の開発と同時に、生産調整のたてにくい歯車業界で、着実に時代の流れを読み取り、生産と設備投資をコントロールした点であった。
すなわち、三十九年に仲町工場が完成、第三次計画も立てたが、実際にこれは中断した。過剰の設備投資のため、他人資本が増大し、自己資本率が極めて低下したからだった。

歯車は形状、用途、材質などによって分類されるように、加工方法が異なり、設備機械の種類も多い。このため設備資金が一般加工業にくらべ数倍かかる。それだけ操業度を上げなければいけない。しかも人手を多くしないよう高価な自動化設備が必要となり借入金の経営になる。
そこに企業体質の問題点があると考えたのである―――。
「多すぎる借入金は危険だ。企業の安定はあくまでも自己資本の充実である。最近、倒産が多いのは多額の借入金が引き金となっている」――― こうして目前にせまった第三次計画を中断した。
昭和三十四年~三十六年の小原歯車工業は自己資本率が二十二%となってしまった。富蔵は出来上がっていた設備導入計画をキャンセルし、せっかく出来た川口市錦町の三階建ビルを他人に貸すなどして他人資本の返済に努めた。
そして自己資本率を昭和四十年度には五十%と目標を定め、ついに四十九%にまでこぎつけた。自己資本が充実すれば不良手形、売掛金、未回収などの資金難も解消できる。借入金の多い会社はいわば半病人である。自己資本が充実していれば少々のことではビクともしない。

第18話 独学で学んだ経営哲学

―――事実そのカンはズバリと当った。あのまま設備投資を続けていたら今日の小原歯車工業は存在しなかったかも知れない。
「事業家として先見性を持ち、経営者としては独学で経理の勉強をし、独特の経営哲学を身につけていた」と稲田巧氏ほか先代の社長を知るすべての人が異口同音に語るこの”信念”があってこそなしえたことではないだろうか。
逆井清直氏(現・埼玉県経営合理化協会の専務理事、埼玉県の商工行政一筋に三十二年間あたり、埼玉県の企業診断の草分け的な方)は「経営者としての小原さんは、合理化への意欲に燃え、前向きの姿勢で、しかも問題意識を持った人で経営に関してはとにかく熱心な人でした」と故人を偲んでいる。
特に独学で経営哲学を学んだ点について「当時、損益分析点経営、計数管理を考えて実行している経営者は川口では少なかった」と回想している。
ではその経営ビジョンとは一体どんな経営だったのか。昭和三十四年に発行した「こうすれば経営は黒字になる」(川口機械工業協同組合刊)の中からその要点を抜粋してみよう。

1.日本では大企業と中小企業の格差はますます開いている。たとえば賃金、大企業を100とすれば中小企業は60、零細企業は40にすぎない。 中小企業は数が多いこと。市場が狭いためどうしても過当競争となる。
単価と支払いは”あなたまかせ”になっている。結局、この場合、自分がしっかりしなければ誰も救ってくれないのだ。つまり「どうすれば黒字になるか」は 「どうすれば赤字を出さないか」につながる。
中小企業は大企業と違う。それだけに経営のやり方、考え方によって中身も
ぐっと違ってくる。

2. 企業は経営によってあげた利益を活用するところに発展がある。利益を伴わない企業はだんだん衰弱していくしかない。それだけに赤字経営の場合は、なぜ赤字になるのか、その病根を取り除かないことには黒字にならない。経営とは、”生きもの”であり、時には”水もの”である。いろいろなケースをその都度、適切な判断と有効な処置によって解決する以外に方法はない。ここに経営者の腕のふるいどころがある。

3. 赤字の出る理由は簡単だ。収益より費用が多ければ赤字。収益が少々、上まわっても破算する場合がある。
たとえば十万円の利益に対して、考えもなく百万円、二百万円と競争意識に燃えて設備投資すれば金詰まりをおこす。借入をすればよいが計画性があるか、よほど長期でないとダメだ。破算した企業を見ると十倍、二十倍の負債がある。
これほど関係者にとって迷惑千万、本当に社会悪といいたい。私は常に第一に破算すまい。赤字を出すまい。”儲け”のソロバンをはじく。
それでも赤字があるのなら、人を減らすか、企業を縮少するしかない。
また、収益-費用=利益(または損益)になるのであるから一定期間を通じて常に利益をもたらすべく努力しなければならない。

4. これに対して新しい経営意識としては(収益)-(利益)=費用という考えを持たなければならない。これはある月の予想収益金をまず決めておき、さらに天引き的に利益を想定して差し引き、これで費用を計算しておくことである。
これを実行すれば何にいくらかかるか細部計画が出来ると共に、支出も管理できるのだ。経営とはまさしく「入るを計って出ずるを制す」である。
ここでいう利益とは株主、従業員、顧客の三者のうち、いずれのひとつでも犠牲にしない利益でなければならない。つまり先を見越して合理化、工夫、改善をキチンと行うことが経営者としてもっとも大切なことである。

 以上が富蔵が自身で開発した要旨であるが、さらに持論として力説した点は「利益の限界と損益分析点」「生産性向上」の二点であった。

利益の限界と損益分析点とは、毎月の売上を設定、その中から可能にして最大という想定利益を算出。そこから、固定費と変動費を差し引いて採算点に達しているかどうかを計数的に管理する。
一方、生産性の向上とは生産高/投資額にて分母(投資)が少なく、分子(生産)が多ければ生産性がよいことである。生産性の向上にとって大切なのは、工場の近代化、合理化と同時に労使が一体となって「良く安く早く」を念頭に品質の向上、コストの引下げ、消費者へのサービスを行うかである。
物をつくるには設備がいる、少ない設備で多くの生産を生み出すことが生産性の高いことである。
測定を算出する方法としては書物も数多く出ているが、要は実行に移す事である。
実行とは『勇気と努力』であるがなにも難しく考える必要はない。一番手近な所から実行に移せばよいのである。例えば、家庭において服を脱いだら一定の所へかけておき、いつでもすぐ着られるように、工場でいえば工具を使用したら元の所に置いておく。要は少ない労力で最大の効果をあげることで企業の大小は問題ではない。
さあ、明日とはいわず今日から実行しようと結んでいる。

―――それから約二十年の歳月が流れた。理論としても鋭い説得力を持ち、しかも着眼点を持っている。
特に中小企業という己の立場を考え、自己の体験を基に考え方をまとめた点がいかにも先代社長・小原富蔵の経営哲学なのである。
経営者にとって自己の信念は、やはり”人生”そのものなのだ。設備投資に対しては厳として過剰を禁じている。 そういえば富蔵自身四歳の時から破産、親子離散という苦しい体験を味わっている。
破産は社会的罪悪…といい切ったあたりには切実な思い、願いがあったのだ。
また、利益をあげるためにはまず「入るを計って出ずるを制す」が要と語っているが、これまた身を持って得た独特の金銭感覚がにじみ出ている。堅実に、誠意をこめた経営でなければならないところが、小原富蔵の世界なのである。

第19話 仕事、人、川口を愛したその生涯

ここに富蔵に対して送られた表彰状、感謝状の一覧表がある。
それは昭和二十五年から四十一年の十六年間に二十四の多きを数える。また、その内容も交通安全への貢献(二十五年川口市交通安全協会)、PTA会長の功績(三十二年川口工業高校々長)、川口陸橋の建設(三十四年川口市長)「緑十字銀章」(三十九年全日本交通安全協会長)、中小企業振興(三十九年埼玉県知事)、「勲五等瑞宝章」(内閣総理大臣)などさまざまな範囲にわたっている。
富蔵をもっともよく知る人として小原金雄氏は「精力的な努力家でした。経営者として優れていたのは先見の明があったこと。自分の体験に照らして、すべての面で厳しい人でしたが、苦労しているだけに優しさや思いやりもあった人でした」と回想している。
同じく稲田巧氏は「厳しい反面、愛情のある人でした。社長は、数字に明るく、よくこれからの見通しなどを話し合い社長は私をかわいがってくれました。実のオヤジみたいに感じていますよ…」としみじみと語り「とにかく社長として常に先をみていましたね。現在のこの本社工場を作ったことが、KHK標準歯車の販売と同時に、今日の発展の基礎となっているし、そうした構想を持っていたからこそ野田工場の土地を入手した。公害、環境問題がさけばれる以前のことだったからなおさらです…」と語っている。
米原秀晃氏は「まだ三十歳にもならない若い技術屋に設備のことやこれからのことを話してくれました。一人で寮生活していた時なども一緒にメシを食べに行こうと、気をつかってもらいました。本当に愛情こまやかな人でした」と語ってくれた。
柳川利勝、水野昇、和室次男の各氏とも「ガンコな社長でしたが、従業員思いの社長でした」とそれぞれ思いを語ってくれた。
小泉政雄氏(埼玉機械工業㈱社長)は「技術屋であっても、自分で経理の勉強をする。常に先に先にいく人でした。また人に物を教える場合にも偉ぶることは一切さけ、”自分の体験からいくとこうなんだ”と説明する人でした。だから非常にわかりやすくてみんな参考になったと思う。歴代の理事長の中でもその指導力は優れた人だった」と語っている。
逆井清直氏は「いまでも鮮明に覚えているのは”迷想の部屋”へ案内された時のことです。この部屋は経営上のことを一人になってじっと考える部屋。こんな部屋に案内されたのははじめてなのでビックリしました。ただ考えているのではなく、じっくり考えてからズバリ実行する人でした。例えばマーグ(スイス製の形削盤)を購入する時でも、この機械を買えばどんな効果があって、どれだけ設備が近代化するかをよく研究してから買い入れるのですね。また、それを導入すれば歯車の専門メーカーとしてどれだけ技術力が上がり、競争力もつくかをちゃんと見通していた人でした。
経営者に求められる一番大切なことは設備、経理、営業とすべてのバランスを見ながら判断をくだすこと。そのカンどころが企業を運営する際に度外視してはならないので、この点の”カン”も見事に持ち合わせた人でした」と企業診断の専門家らしい人物評を語っている。
富蔵の経営理念、特に企業との関連についてはどんな考えを持っていたのか―――。
昭和三十四年発表した『企業と人間』(前出・川口機械工業協同組合刊)という小冊子からその要点をひろってみよう。考え方の一端を知ることができる。

1.企業は資本金と少数、または多数の人間から構成されている。企業はそこに働く人の生活を守るために賃金を支払い、そこに働く従業員は、その仕事を通じて社会のために働いている。それだけに企業は公的なものといえる。

2. 企業を構成する人は経営者、資本家、従業員に三分できる。しかし、資本と経営者は一体なので、三者であるべきが二体となっている。 しかし、型式が株式会社なるが故に利益処分をして株主に配当し、利益準備金積立をしている。そこで混同しがちなのは、同族会社の場合であるが、資本と経営がひとつであるために経営者自身の利益であると思う人が多い。
しかし、ここで考えなければならないのは企業が儲けた金は、あくまで企業のために使われるべきであり、経営者自身のために使われたとすれば使われた金額だけ、その企業は細くなり、発展が遅れる。
要するに企業会計と個人会計は絶対、別にすべきである。いかに小企業であっても企業は公であり、経営は個人であり、それを混同すべきでない。

3. 企業もひとつの団体であって、経営者、従業員は企業全体をよくするようにと考えるべきである。企業は生産性の向上、合理化、科学的経営などに常に心がけ、それに応じて従業員の賃金を引き上げ、消費者サービスをすれば正当な利益を得る。つぎに従業員の性格なり、考え方を是正し合う。この場合、あくまで企業全体を対照とした考え方、批評でなければならない。逆に個人を先にして考えたり、批評したりするとそこに感情がからみ、とかく個人的悪口に終ってしまう。
同業者の組合もよくまとまれば、数々の長所がある。たとえば金融がやり易くなる。経済の情報を集めて組合員に提供することが出来る。あるいは組合員の企業を診断して組合員全体の企業体質を改善して近代化を計ることができる。他地域の産業、外国産業にも打ち勝つ体質を持つことが出来る。
しかし、何よりも大切なことは他人はどうでもいい、自分の企業さえよくなればいいという意識を捨てることである。

これもすでに約二十年前に書かれた文章である。今日の厳しい経済環境の中で、実に示唆に富んだ思考である。それはまた、富蔵がいかに仕事を愛し、人を愛し、川口を愛していたかのゆるぎない証拠である。

小原歯車工業株式会社の創業者・小原富蔵は昭和四十一年七月二十六日、零時五十四分、肝硬変で静かに不帰の客となった。享年五十九歳。まだ働き盛り惜しみある人生であった。戒名は”栄雲院敬祥富岳機縁居士”―――。
告別式は八月二日。小原歯車工業株式会社、川口市交通安全協会、川口機械工業協同組合の合同葬儀としてとりおこなわれた。
当日は真夏の八月。くもり空の蒸し暑い日だった。道路には断り切れずに飾られた大花輪、その下に悲しみの別れの参列者たちが列をなした。午前十時五人の僧侶の読経とともにしめやかに始まった。葬儀委員長の大野市長、栗原県知事、大泉川口商工会議所会頭、KHK標準歯車代理店会長落合次郎社長、永瀬鋳物工業協同組合理事長、岩井川口機械工業共同組合副理事長をはじめ二十数人の人たちよりの弔辞。
機械業界、産業界、取引関係、町会、友人、全従業員と静かに続く焼香の列。遺影の近くには、あたかもその胸につけられたように「勲五等瑞宝章」が置かれていた。

第20話 地域社会に果たした功績

富蔵の半生は歯車と共に生きた人生であったが、同時に数多くの公職、役職を歴任、地域と人々に尽くした半生でもあった。
富蔵が最初に就任した役職は、太平洋戦争のまっただなか、昭和十七年六月に就任した埼玉県南部機器加工修理工業組合(機械組合の前身・川口機械工業協同組合の改称名)の理事である。
戦後、事業再開の見通しがつくと二十二年三月、川口西部機械器具協同組合理事長に就任、二十五年には同組合を発展的に解散し、川口機械工業協同組合になると同組合の理事を三期重任し、三十二年五月に副理事長、二期重任ののちに三十六年二月、理事長に就任、同組合の発展に尽くした。
特に理事長在任中は多年の念願であった機械センターを三十八年十一月八日に完成させている。
理事長として富蔵について小泉政雄氏(埼玉機械工業株式会社・社長=六代組合理事長)は「先代の理事長は組合で、これからの企業は自分の会社を分析し、それを把握しなければならない。一番大切なのは原価計算だとその重要性をよく組合員に説得していました」と回想している。
また「理事長としては百点満点でした。たしかに経済的にも安定しているよい時代で、みな余裕があった時代ですが、中小企業の融資の問題など、先頭に立ってやってくれました。そして、組合員の会社をマメに見て歩いて、理事長という肩書きをはずして気軽に、自分の体験をに基づいた話をよくしていたことを覚えています」と語っている。
また富蔵は二十六年四月、川口市議会議員として初出馬して当選。その後、三期連続、十二年にわたって川口市政に参画し、高い識見と深い経験をもって市の発展と市民の福祉に寄与した。
特に三十四年四月から二年間、十三代目の副議長として議会運営の円滑化に尽くしている。
当時は工業の発展にともない、いろいろな問題が市政に打ち出されていた時であった。その一例としては西川口駅の設置、県道白子線川口陸橋の建設、川口駅西口の整備、治水対策など数々の範囲に及んでいる。
逆井清直氏は「議会に三期出て四期目に出馬を断念したのは実業者としてその道に徹するという小原さん自身の信念があったためだと思う」と語っている。政治に参画し、特に副議長の要職まで段階を昇りつめると、政治から身をひくのはどうしてもその時期を見失うものだが、このあたりのスパッとした割り引き方がまた見事である。
富蔵のモットーは、”知”(判断)”人”(奉仕)”勇”(実行)の三字である。
現実と将来を見極め、人間として幸福を得るために尽くし、機を見て実行する…まさしくこのモットーに基づく英断であった。
また、富蔵の数ある功績の中でも、最も特色があるのは、川口市交通安全協会副会長兼理事長として交通安全に尽くしたことである。
佐藤幹夫氏(山藤工業株式会社・社長)は「小原さんは川口市民の中でも最も交通安全には尽くした人だったと思う。自分が自動車が好きだったし、交通問題には全力で取り組んでいました。戦後、まだ交通安全がこんなに大きな社会問題になる以前にその重要性を着眼した人でした。そして戦前からの”貨物自動車組合””自家用自動車組合”を一本化し、昭和二十四年から初代会長として就任しました。以後は信号の設置も埼玉県で一番最初に働きかけた人、自費で安全器を設置したり、十日を交通安全デーと決めて旗をたてて市内を巡回したりした。たしか全日本交通安全協会より”緑十字銀章”をもらったはずですよ」としみじみと語ってくれた。
特に「現在のように市から助成金が出る時代とは違い、当時の交通安全協会は、みな手弁当のボランティア活動、だいぶ性格が変わってしまった」と語っている。
川口は工業の町。昔から車が多かったことは事実なのだが、まず安全を守ることが市の発展、市民一人一人の幸福につながることを見通し、自ら先頭に立って運動を推進した点にヒューマニストとしての面目が躍如している。
この点は機械工業組合の場合でも、真っ先に”給食センター”設立を提案、実行していることによくにじみ出ている。
このほか、別表にあるような数々の公職、役職をもち、真に地域社会の発展のために全力を投入した。
こうした活動により内閣総理大臣(佐藤栄作)より「勲五等瑞宝章」を受けたことをつけ加えておく。

第21話 裏方として富蔵を守った妻・ふで

富蔵の妻・ふで。富蔵の人生は妻のふで抜きで語ることができない。それは小原家にとっても、小原歯車工業にとっても同じことが言える―――。
ふでは明治三十九年、入間郡富岡村で生まれた。富蔵とは昭和八年五月に結婚。男三人、女二人の五人の子供を育てた。
昭和十年に富蔵が独立して以来、常に陰になり日なたになって富蔵の仕事を終始助けた。創業時、借金の返済のために、富蔵と共に寝食を忘れて働き、今日の礎石をつくった。
戦後の混乱期も富蔵の仕事を助けながら五人の子供の養育。そして会社の成長と同時に増えていった富蔵の公職や役職、そのいずれの場合にもふでは裏方として富蔵の仕事を陰から支えた。
ここに昭和四十一年五月十四日付日刊工業新聞の連載物『内助の功』でふでを扱った記事があるので紹介しよう。

小原さんの身の回り一切の面倒を見るのはふで夫人の役目。真赤な車を駆って組合事務所へ埼玉県庁へと忙しく飛び回るご主人だけに夫人の気苦労もひとしお。
数年前は地元の婦人会などに顔を出していたが、最近はすっかり家庭にこもっており、小原さんが留守のときはお孫さんが相手。食事を共にするのもまれなので「まるで家族じゃないみたいです」とふで夫人はちょっぴりさびしそう。
しかし今でこそ家庭婦人におさまっているが創業時代は油にまみれて働いたという。「四尺旋盤一台で主人と二人ではじめたものです」と語る夫人の表情には苦難を共にしたご主人に対する信頼感と自信があふれている。小原さんは「点数をつけるなら五十点以上。それ以下ならとっくに別れているよ」とニヤニヤ。
年商二億円近くをあげる今日の小原歯車工業の基礎を作ったのは内助の功は動かすことの出来ない実績らしい。夫婦揃っての”ひのえうま”の五十九歳。「もう少し家族団らんの時間があればいいのですが」と、そればかりがふで夫人の悩みという。

ふで夫人を語るにふさわしい紹介記事である。
稲田巧氏は「たしかに下手な職人顔負けの腕を持った奥さんでした。またどんなに嫌な事があっても顔に出さない出来た人でした。」と語っている。
小原金雄氏は「働き者の奥さんで、とにかく労を惜しまない人でした。先代の社長が会社を一代で築き上げられたのも、たくさんの公職、役職をこなせてこられたのも内助の功が大である」と語っている。
そして、いまは嫁がれた長女の菊江さん、次女の勝代さんにお父さんの思い出を聞いた時、最後に言われた言葉は「たしかに父は立派でした。たくさんの仕事をしました。でも父がなした仕事の大半は、母の功績といってもいい。だって留守がちの父に代わって家庭の大黒柱として頑張ったんですもの…」と異口同音に強調された。その妻・ふでも昭和五十一年十月十七日その生涯を安らかに閉じた。

第22話  父の思い出

小原誠治(次男)
自動車、カメラ、8ミリが好きで、いつも新しいものにめのなかった父でした。特に自動車が大好きで、年がら年中、新しい車に乗り換えて悦に入っていました。
そして、自分は機械屋で機械に詳しいくせに、ちょっとした故障でも自分では決して直そうとしない。ある時、途中で事故をおこした時なんか、途中で車を放り出して”おい、故障してしまった。置いてきちゃったから取りにいってくれ”といった具合の父でした。
こうした反面、非常に几帳面な父で、自分が会社をおこして以来の出来事をきちんと整理して、記録として残してある。しかも項目別にして分類して、自分のコメントも記してある。特に数字に対しては正確な父でした。私は現在、総務の仕事を担当していますが、父の残したデータをそっくり踏襲して、以後の記録づくりを行っています。父の域に一日も早く達したいと思っています。

小原昭治(三男)
私は子供の頃、体が弱かったらしく、父はそのことがだいぶ心配だったと聞いております。
子供の頃の思い出としては、父が兄たちの時代と違って、いろいろ仕事が多くなり、私が起きている時や食事の時は、ほとんど不在で顔を接することがありませんでした。
それから学校のPTAや運動会などで、必ず父がみんなの前で話をするもので、子供心になんか気恥ずかしい気持を持ったものでした。
仕事のことに関しては、常々、大企業相手の仕事、地域の中小企業相手のいわゆる賃加工で六十%、標準歯車を四十%の配分でいくのが一番良いと話していました。
父が居たときはだいたいこの比率で仕事をしていたのですが、現在はその逆になってしまった。標準歯車の種類も約千五百種類と増えて、父がいたらなんというかと思います。
父の意志を引き継いで、堅実に着実に会社を伸ばしていくことが、父に対する一番の花むけと思います。

小原恵子(現・社長夫人)
昭和三十六年頃、私がお嫁に来た頃、仲町工場と錦町工場に別れていましたので、父は毎日往復しておりました。
時折、仲町工場で夜遅くまで仕事をしていましたので、よく私の家で夜食を食べてくださり、いつも笑顔で”とてもおいしいよ”といって昔話をして下さいました。とても暖かい思いやるのある父で、私はとても好きでした。

高橋菊江(長女)
仕事一筋のファイトマンで努力家の父でした。私は五年間、父の仕事を手伝っていました。戸田さんの下で経理の仕事をしていたのです。それだけ、父と接する機会は兄弟の中で一番多かったと思います。
昭和三十九年頃、私が結婚する以前。父と一緒にお酒を飲みながら、家庭のこと、会社のこと、将来のことを夜遅くまで話していたら、母から”もう、いいかげんにしなさい”と叱られました。
また、父は「もうお前も年頃、もらい手がないのなら、赤札を背中にぶらさげて”結婚相手を探しています”と書いて川口の町を歩けよ」なんて、冗談を言われました。
気持や性格的な面で父によく似ているらしく、”お前が男なら”ともよく言われました。
結婚してからも主人の仕事が順調にいくか一番心配だったのではないかと思います。私は四十一年の三月に嫁ぎ、その四ヶ月後に父が他界してしまったものですから…。
今も生きていて、私たちの仕事ぶりを父に評価してもらいたかったとつくづく思います。

本橋勝代(次女)
父があぐらを組んでいる時、よく抱かれて頬ずりをされたことが記憶に残っています、ヒゲの濃い父で、とても痛かったものでした。
痛い思い出というともうひとつ、父はよくタバコを吸って、私をヒザに抱きながら、人と話をするのです。話に夢中になって、タバコの火が私についてヤケドをしとても熱かったです。その時の傷跡は今でも残っています。
私は一番下の子供でしかも女だったものですから、小学校二年生ぐらいまで父のヒザによく抱かれたり、父からはずいぶん甘やかされて大きくなりました。
私が物心がつき、大きくなってからは、ほとんど話す機会も、食事を一緒にする機会がないほど会社の仕事、組合の仕事で多忙な父でした。
本当に十三年がついこないだみたいな気がします。五十九歳の若さでこの世を去るなんて…。まだまだたくさんやり残した事があったかと思うと残念でなりません。


第23話  社長の思い出

米原秀晃(製造部次長)
私は会社が飛躍をはじめた昭和三十二年の秋に入りました。そして、三十五年四月に結婚し、先代の社長に仲人をしてもらいました。昔気質のいい社長で、一対一になった時に思いやりのある人でした。
まだ、三十歳前の私に、大阪からよく来てくれたと、技術屋の一人として大切にしてもらいました。今でも覚えていることは、関西に出張に行った帰り、伊丹の空港でマツタケを買ってくれて、”おふくろさんに持っていけ”と言われたことです。
また、独身寮で生活していた時、日曜日に”米原君いるか、ちょっと話がしたい”とブラッと訪ねてこられ、会社の将来のこと、これからどんな機械を導入したらいいか、良い機械を入れて、一人で何台もの機械を担当し生産性を高めたいなど、社長の考えを聞かせてもらいました。
市会議員などの公職についていた社長だったので、社会的地位からにじみでた社会観を持っており、普通の鉄工所の社長とはひとあじ違った人でした。

柳川利勝(業務営業課長)
先代の社長は根が正直な人で奥歯に物がはさまったような言い方が嫌いで、ズバズバものを言う人でした。
でも、人情家で、特に従業員に対しては思いやりが人一倍あった社長でした。
たとえば当時、私は夜学に通っていました。修学旅行に行くのに小遺銭がない。五十円程前借を申し出たかったのだがなかなか切り出せないでいたんです。意を決して話すと意外と簡単に承認してくれて「身体に気をつけていってこい」と励まされました。あの時は嬉しかったです。

石井正男(営業課長)
普通社長というとデンと構えている人が多いと思います。しかし、先代の社長はナマイキ盛りの若い私たちの意見や、考え方を一生懸命理解しようと努力してくれました。功なり名をとげた人が、年齢的にも違う若い者の立場を知ろうとすることは大変な事だったと思います。

水野 昇(生産課係長)
私は昭和十六年、大東亜戦争のはじまったその日に小原歯車工所に入りました。まだ、徒弟制度のあった時代で、私は社長が独立して最初に育ててくれた弟子です。
戦争中だったので、社長も日の丸ハチマキで一緒になって現場で働き、同じカマの飯を食べました。
ガンコで一徹な社長でよく叱られました。しかし、あとに残る怒り方はしない人でした。形式ばることが嫌いで和気アイアイと仲間みたいな感じで仕事をしました。そうした風潮は現在でも引き継がれています。
会社がだんだん大きくなって、”社長”と呼ぶようになりましたが、私にとってはいつまでも“親方”という呼び方がピッタリする存在でした。

長井誠市(業務営業主任)
戦後二十年に十六歳で入社し、最初は親方と呼んでいました。私らとは手の届かない所にいるような感じで、いつまでもおっかない印象が抜けませんでした。
ある時五時に仕事を終えて、親方より先に風呂に入って叱られたこともありますし、また、夜勤の時、夜中に大声で歌を歌っていて叱られたり…。とにかくよく怒られた事が一番印象に残っています。
でも今思えば先代の社長はつくづく偉大な社長であったと思います。

和室次男(業務営業主任)
入社したての頃の事です。夜勤をしているとよく眠くなりました。そんな時、社長はドテラ姿で見廻りに来て”眠いのか、これでも飲んで元気を出せ”とヤカンに酒を入れて持って来てくれました。無性に恩情を感じました。
これは失敗談ですが、入ったその日から機械に付き、その機械から油がこぼれていたんです。”オイ、油がこぼれているぞ”と誰かに言われ、私は”こぼれているのがわかっているんなら自分で処理すればいいじゃないか”と言って後ろを振り向くと社長だった―――。あの時はびっくりしたが、社長も新入社員だとわかっていましたので何も言いませんでした。
ガンコで自分の言った事を通す社長だったが、恩情家で、いま生きていたら野田工場が立派になり、売上もグーンと伸び、喜んでくれたことと思います。