芝草ものがたり

芝草ものがたり(本文)

  • 駅という名の人生劇場
    駅というものには人生の縮図がある。目的地に向けって発つ人々、あるいはいずこからともなくかえってくる人々、その一人ひとりの顔の表情を見ると、希望や憧れで胸を弾ませて旅立ち、ついに夢破れて帰って来るかのように思える。駅という人生の広場には、悲喜こもごもの想いを胸にひめた人々が集まり、そして互いに無関心に散っていく。駅はまさに人生の縮図である。
    と、いうような意味のことを書いたある作家がいた。駅に人間の悲しみとよろこびの交差さる光景を幻想したその作家は若くして自殺したが、なるほどそういわれてみると、駅は人生のドラマが演ぜられる一つの舞台にちがいない。
    大正四年八月のある日の夕方、下板橋駅の構内で、登場人物だけしか知らないささやかなドラマが演ぜられていた。幕あきは、まず次の会話から始まる。
    「東京はどっちのほうこうですか、駅員さん?」
    と、尋ねているのは十歳前後の少年であった。
    「東京?君ひとりで東京に行くのかね」
    「うん」
    「汽車貨は持ってるかね?」
    「九銭もっている」
    駅員は笑った。
    「ダメ?」
  • 再び駅員は声を立てて笑った。
    「さあ、お帰り。お父さんやお母さんが家で心配してるぜ」
    「お父さんは東京にいるんだ。東京の大学いるんだ。だからそこへ行くんだ」
    駅員が困って黙りこむと、そこへ二、三人の男女が駆けこんできた。その中に老人もいる。
    「やっぱりここだ。さあ富蔵、家に帰っろう」
    と、その老人が強く云った。
    「いやだ!」
    「お父さんはまた来る。そのときに行けばよい。だか、いまはもうおそい。さあ帰ろう」
    「いやだ、いやだ!」
    少年はひきずられるようにして構内を出て行った。駅員は、やれやれという表情をした。みたところ、相当に頑固な少年らしい。あんな子をもつ親も大へんだろう。駅員は首をふりながら控所の中にはいっていった。
    さて、このドラマの筋書きを語ろう。駅員にはどうしょうもない頑固な子供に思われたこの少年こそ、主人公、小原富蔵である。富蔵は、先刻わかれたばかりの父の跡を追って東京へ行こうとしたのであるだか、いったいなんぜ?
    それには次のような事情があった。
    たび重なる不幸
    明治三十九年十月四日、東京市下谷の金杉で小原富蔵は生まれた。父省三は、その地で餅菓子屋を開いた。母はるは、板橋の西台村の富農の娘で、この実家の経済的な援助で省三は餅菓子屋の店を持つことができたのである。
    商売は順調だった。使用人もふえ、さてこれからだというときになって、彼は妻に死なれた。それがきつかけだったかどうか、彼は相場とか、カケ事に手を出すようになった。人の一生のはかなさ、虚しさを感じ、コツコツとまじめにはたらくことが馬鹿らしくなったのかもしれない。
    後妻を迎えたが、一度味をしめた相場から手をひくことができず、ついに行き着くところまでいってしまうのだ。倒産である。このため、その頃生まれた長男富蔵は、母の実家である板橋の家にあずけられることになるのである。というのは(富蔵の母親である人(後妻)は、前妻の実妹で、したがって実家は同じなわけである。
    店がつぶれて、一家は南千住の長屋に移り住んだ。明治四十一、二年ごろ、富蔵が二、三歳のときのことである。兇事は、起り始めるとつづくもので、ここで小原一家は最後の不幸に遭遇する。明治四十三年の大水害であった。父は二度目の妻を、彼は母を葬うことになるのだ。
    荒川土手を死体を担いで、実家まで運んだ。幼い富蔵の目に映ったこのときの光景が、いつまでものうい脳裡に焼きついていた。深刻な幼時体験は、生涯を左右するといわれる。この体験は、今日の小原富蔵を理解する一つの手がかりとなるだろう。
    母を喪った彼は、祖父山口彦市のもとで養育されることになった。南千住にいたころ、かもじ屋をやったりしていた父は、どれもパッとせず、人の世話で東京帝国につとめ口を得た。帝大の下足番係である。
    このため、父子は別々に住むことになった。父は餅菓子屋を開いていた土地、東京・下谷に兄の家があり、米屋と焼きイモ屋を兼ねていたが、その兄の家の三畳に下宿し、息子は祖父の家で起居することになったからである。
    父は、一年に一、二回、彼の顔を見に来るだけで、富蔵はしだいに物心つくにつれて、実の父親というものの実感はしだいとおざかった。ときどき現れて笑顔をみせるが、何となくヘンな感じなのである。
    「お前のお父さんだよ。」
    そういわれても、気恥しさが先立ち、一目散に逃げ出すのである。どうもピンとこない。「へえ、あれがお父さんか?」といったかんじである。
    富蔵は、小学校に上る年頃から、おそろし向う意気の強い、暴ん坊になっていた。祖父は躾のきびしい人であったが、目のとどかないところではとんでもないイタズラをやらかすのである。
    隣家に十七、八歳の娘がいて、この娘と彼はケンカをするのだ。勿論、彼のイタズラが原因である。あるときなど、棒きれで殴りつけて泣かせたことがあった。相手は半分大人、半分子供であるから、この乱暴に腹をすえかね、今度は彼がその仕返しをされた。
    すると彼は、深夜、コブシ大の石を持っていって、表玄関からその家の中に投げこんだ。物の壊れる音がし、電燈がつくと、
    「いい気味だ!」
    とばかりに逃げ出すのである。
    無論、どこの誰がそんなイタズラをやったかすぐに判るから、彼は祖父から火の出るほど怒られる。
    だが、彼の悪童ぶりは一向にやまなかった。学校でも、彼は暴れん坊であったが、成績は極めて良かった。一年のときは級長で、二年になっても優秀な成績であった。殊にいいのは算術である。いつも甲の点を取ってきた。

    ところで、何が原因で彼はそんなに暴れん坊だったのだろうか。容易に想像されることは、やはり家庭の事情である。幼い心は、親のやさしい愛情に餓えていたのだ。愛情に餓えった心は、何からの行動で大人の関心を自分にひきつけようとする。これがイタズラである。
    この種のイタズラがやむとき、少年は閉鎖的な性格にわかる。外に向けてさし伸べられた手が、いつも虚しく裏切られ続けると、少年は傷つかないために、自己防衛のために、固い殻の中にとじこもってしまうのだ。
    表面的にはととなしくなるが、餓えた心は満たされていないから、表情の暗い、淋しい少年となるのである。
    この殻が、あるきつかけで突如破れることがある。愛情を求めて、奔流のように何かがあふれ出るのだ。それは三年の夏休の日の出来事だった。
    東京はどっち?
    久しぶりに父が現れた。例によって、富蔵は半分逃げ腰である。「この人がお父さんだ」と自分に何度もいいきかせても、何となくそのまま懐にとびこんでゆきにくいところがある。そのため、どうしても逃げ腰になるのである。「今日は一つ、東京につれて行ってやろうかな?」父は笑顔を向けた。
    富蔵は黙っている。東京と聞いて気持ちは動いたが、素直にうんといいにくい。
    「おや、いきたくないの?」
    「行く」
    彼は思いきて云った。
    初めての東京は珍しかった。どこをどう歩いたかはつきり記憶にはないが、華やかなでパット、きれいな飾窓の商店、人の波、そういったものが、きらびやかに少年の目に映った。
    父はやさしかった。あっち、こっちでいろんなものを食べさせてくれた。彼の気持ちはマリのように弾んだ。「お父さん」という実感がはじめて胸の中をうるほした。「やっばりお父さんだ」と、ひそかに呟いてみると、いっしか意識の疎遠感きえていた。
    「おとうさん!」
    という呼びかけも素直に出る。
    「何だ?」
    「ぼく、お爺さんのところへはもう帰りたくない。いいでしょう?」
    「…………」
    「ダメ?」
    「いまはダメだ。もうちょっと辛抱しなさい」

    彼は、祖父のもとに帰って、子守りばかりさせられるのがイやだったのではない。せっかく掴んだ<父>というものを離したくなかったのである。それに、できることなら田舎よりも東京で暮らしたかった。

    しかし父は、なんど頼んでもいいとはいわなかった。それには理由があるにちがいなかったが、少年には推測しょうもない。不満を胸にいだいたまま、父につれられて祖父のもとに帰ったのだった。せまくるしい一室に暮らすようになっても、彼には少しも問題ではない。それほど彼は、肉親の愛情に餓えていたのである。」

    三畳間の父と子
    父のもとに来たので、彼は三年の途中から転校したわけである。東京の小学校は、田舎にくらべるとレベルが高い。そのために成績少し悪くなった。
    それにつれて、性格も不思議とおとなしくなっていた。以前のように、極端なイタズラをして近所の人々の顔をしかめさせるようなことは少しくなった。
    だが、負けず嫌いは相いかわらずで、あるときこんなことがあった。近くに安楽亭という寺があり、その境内に姪をおぶっていっていると、高等学校の生徒らしい青年が、彼をからかったことからケンカになった。
    赤ん坊をおぶっているから彼は不自由だ。殴られて泣きながら家に帰った。「よし、見ていろ」と、彼は唇をかんだ。赤ん坊をおくと、涙を拭いて再び境内にとって返した。
    しかし、青年の姿はもう見えない。そこでその日の夜、丸太を掴んで青年の家の前で待ちかまえていた。
    「帰ってきたら、殴り倒してやる!」
    もう負けないぞ、という気概である。
    夜はしだいにふけていった。もう帰ってくるだろう。もう帰ってくるだろう、と思っているうちにあたりの家の灯も消えてしまった。おそらく寄宿舎にもどったのだろう、ついに二度と青年の姿は見かけなかった。
    伯父の家は、前にも書いたように、米屋であるが焼きイモやもやっている。焼きイモの方は夏になると氷にかわる。いわば米屋の副業として焼きイモと氷を売っていたのである。
    伯父は、富蔵にきびしかった。学校から帰って来ると、待ちかねたようにいろんな仕事をいいつける。やれ庭の掃除た、子守りだ、水くみだ、イモ洗いだ、とまるでデッチ小僧である。伯父にしてみれば、下宿代もロクに払わない弟に転りこまれて、仕方がないからガキでも使ってモトを取ってやれ、という肚だったのかもしれない。
    富蔵はよく働いた。父が身近にいることの少い淋しさを、働くことでまぎらしていたようだ。三畳に独りでぼんやりしていても気がふさぐ。彼は伯父のいいつけどおり、こまめに体を動かした。
    子守りも、イモ洗いも、伯父と一緒に米の配達をするよりは楽しがった。二斗の米を肩に乗せて王子まで歩いたこともあった。十一、二歳の少年にとって、米二斗といえばほぼ自分の体重にひってきする。とても自分で肩に乗せることはできないから、最初だけは伯父に乗せてもらう。そして同じく肩に米を担いだ伯父のあたについて、背骨が腰にめりこむようなおもさに耐えながら、彼は歩くのである。
    そんな毎日に、楽しみがないではなかった。深夜帰ってくるのが常だったので、その時間までおきていようと思っても、いつしか疲れて眠ってしまう。すると、朝、目が醒めると寝床はもう藻抜けの殻になっている。大学に出かけたのだ。少年は眠ったことを後悔し、淋しい思いにとらわれるのだった。

    おこづかいが欲しいとき、あるいは学用品で必要なものがあるとき、寝床の中で父より早く目醒めておいて、父が起きたところですかさず、
    おくれという。
    すると父は、運よく持ちあわせていると、十銭ぐらいくれるのである。
    したがって、寝過ごして取り逃がしたときには学校に持っていくことが出来ず、彼は困った。こうして、せっかく父のもとに来たものの、彼の生活は<家庭>というものからかけ離れた、気味ない淋しいものであったようである。
    学年がすすむにつれて、彼が内省的少年になっていったのは、こうした家庭環境に対する自覚が生まれて来たからにちがいない。豊かな家庭、恵まれた家庭らしい家庭、両親のいる普通の家庭に対する憧れと、それらが欠けていることからくる友人たちに対する妬みの心が、どこへ持って行きようもなく、内攻して彼を内省的にしたのである。
    辛苦に耐えて

    卒業が近くなると、富蔵も将来の進路を決めねばならなかった。父子で三畳に生活しているような状態では、中学進学は思いもよらない。始めから出来ない商談にきまっていた。
    では、残る道は何だろうか。奉公に出ることである。ある日、父は彼にいった。
    「今から先は、普通の商売人になるよりも、手に職をつけた方がいい。どうだ、川口に行かないか。」
    川口には父のイトコがいて、鉄工所を経営している。職人が、四、五十人いる、かなり大きな町工場である。川口にいけというのは、そこで技術を覚えて職人にならないか、ということである。

    「とうする?いくかね」
    「うん、いくよ」
    父は、彼は将来のことを考えて、あらかじめ話はつけておいたものらしい。彼の返事で、すぐにその小原鉄工所にはいったわけであるが、同年三月の卒業であるから、ほとんど日をおかずして彼は奉公に出たのだ。彼は十二歳であった。

    小原鉄工所は、川口では五本の指の中にはいる。製品は一部分歯車をつくり、その他に主なものでは水道管の穴あけをやっていた。腕の立つ職人が多く、当時としては優秀な工場であった。経営者の小原も、職人あがりで腕の立つ、なかなか厳しい人だった。

    富蔵は、ここで多くのものを学ぶのだ。徒弟制度というものは、技術伝授の場であるばかりでなく、人間教育の場である。この制度は、今から見れば弊害ばかり目につくが、洋の東西を問わず、社会進化の過程で、一度は通過しなければならない一種の社会制度である。当時の社会が、この制度を必要としたのである。

    工場ではピラミッドの頂点に親方がいて、その下に年季によって差のある兄弟子たちがいる。はいりたての小僧にとって、こわいのは親方よりも兄弟子である。

    トンカチをやっていて、焼けた鉄の一端をおさえておくのは小僧の役目であるが、これにもコツがあって、振りおろされる鉄槌をはずすと、
    「この野郎!」
    とばかりに焼けた金物で殴られる。怒鳴りつけられたり、鉄拳を浴びたりは日常のことだ。
    「こんな仕事はイヤだ」
    と、途中で逃げ出すものも少くなかった。

    作業場は暑いから、みなフンドシ一つで裸身は汗と油に塗れている。昼になると、
    「ごはんだよ」
    という声が奥からかかる。

    すると、兄弟子から順に体を洗いにいくのである。

    このとき、間違ってもその順番をくるわしてはならない。うっかりすると「生意気だ」とまた殴られる。

    朝も、食事するときはこの序列をきちっと守らねばならない。兄弟子から順ぐりにたべるから、小僧っ子が食卓に坐るときは、味噌汁など汁ばかりで実がない。めしも、汁も冷めてしまっている。

    富蔵は、こうした苦しみに耐えた。はやく、一日もはやく一人前の職人になって、独立したい、と思うことで辛抱した。
    最初は給料なんてものはない。月に五十銭の小使いをもらうだけである。それが三円ぐらいになると、いよいよ一人前になる日が近い。一人前の職人になると、親方は紋付袴をくれる。それからは日給がもらえることになるのだ。
    この独立への気持が殊に強くなったのは、奉公に出て三年目、十六歳ころである。しかし、そのためにどうすればよいか、皆目見当がつかなかった。日給をとるようになっても、自立して仕事するのはいつのことだかわからない。大きな資金―とまではいかなくても、中古の旋盤を一台買うくらいの金は必要だ。そう考えると、彼は頭を抱えこんでしまうのだった。
    大正十五年、満二十歳になった彼は、兵隊検査を受けた。若槻礼次郎内閣成立のころで。世界は軍縮の気運にある。これが幸いして乙種合格であったか。実際に兵役にとられることはなかった。
    最早、父の跡を追ったころの少年の面影はない。立派な体格の青年に成長していた。勿論、そのときには親方から紋付羽折袴をまらい、世間のどこに出ても通用する腕をもった職人になっていたのである。
    悩み深く
    放浪時代その一
    独立の目安が立たないまま、さらに二、三年が過ぎ去った。小原鉄工所にはいって、すでに十年近い歳月が流れている。いまや押しもおされもしない職人だが、彼の気持は晴れなかった。
    「一体、いつになったら?」
    という気持のあせりがあったのかもしれない。あるいは、幼少の頃から遂に満たされることのなかった心が、鬱積して何かをゆがめたのかもしれない。
    彼は、日夜、激しい頭痛に悩まされるようになった。とても仕事なんできそうにない。それほどの痛みなのだ。
    「痛い、頭が痛い」
    と訴え続けるので、親方は心配し、仕事を休んで父のつとめている大学の病院で診てもらった。しかし、病因はわからない。病名のつく病いというよりも、精神的な重荷が原因の偏頭痛らしい。今風の流行語でいえば神経衰弱であったようだ。
    「こんな病気には水商売が一番いい」
    というものがいて、それなら魚屋でもつとめたら癒えるかもしれない、と全杉の魚留という魚屋に奉公することになった。
    魚屋は水商売ではないが、料理屋などに出入りするから関係なくもない。もしこれが鉄工所なんかより彼に向いていたら、将来はスシ屋でも開いたらよい、というのである。
    なんとなくトンチンカンな話である。鉄を相手に汗水雫らして来た男が、いまさら水商売も糞もないものだ。こんなことで病いがなおつたとしたら、もつけの幸いである。
    しかし、一時的にでも本来の仕事から離れたことはよかったかもしれない。気分の転換にはなるだろうからである。
    年齢的にいえば、彼は駆け出しの小僧っ子ではない。魚屋といっても「ヘイ、いらっしやい」の店売りではなく、外回りの注文取りで、根岸の屋敷町で刺身の注文をとってくると二割程度のリベートをれるから、彼はこの年の功にものをいわせて、積極的に働いた。魚屋としても、どうやら通用しそうであった。
    だが、真冬のことで、馴れない水仕事を続けていると、アカギレとシモヤケで両手は見る影もなくはれあがった。
    「こいつはどうもたまらん」
    と、魚留にはいって半歳」目ごろに彼は逃げ出した。もともと本気で魚屋なんかになるつもりはない。家出である。
    そのまま彼はぶらり、東京駅に来た。懐には二〇円の金がある。さて、何処に行こう。そうだ、名古屋に行けばおれに向く仕事あるかもしれない。調べてみると、汽車は翌朝名古屋に着くものしかない。えい、ままよ、どうにかなるだろう、どいうわけで、彼はキップを買って乗り込んだ。
    こうして、疲れ果てた一人の男の心を乗せて、列車は深夜の東海道を西下していくのだった。彼の精神に、一体どういうことがおこったのだろうか。何もおこりはしなかった。永年の苦しみに疲れ果てた心が、安息を求めたのかもしれない。それがこの突飛な行動の原因だろう。
    列車は薄らあかりの時刻、ある駅にXX(P38)りこんだ。ここはどこだろう。駅員の連呼が聞える。浜松だ。浜松もまた工業の町である。名古屋まで行く必要はない。
    「よし、ここで降りよう」
    突差に彼は座席を立った。ほとんど発送的彼は浜松のホームに降り立ったのである。
    しかし、浜松に仕事はなかった。昭和四、五年の不況時代で、全国の失業者四十万とも、五十万ともいわれたときであるから無理もない。彼は再び汽車に乗って名古屋に向った。
    名古屋での職探しもよういではなかった。市内の木賃宿に泊り、一日中足を棒にして歩きまわるがダメだった。二日たち、三日たち、一週間をすぎ、二週間をすぎても職は見つかりそうにない。そろそろ懐の金もなくなって来た。今日、明日のうちに仕事がないと、宿銭も払えなくなる。
    途方に暮れた彼は、田圃の畦道に佇み、何かをぼんやり考えていた。カラスが一羽、消魂しく鳴いて野面から飛び立ち。だが彼は、そんなことには全く気がつかない様子である。
    そこへ、一人の男が通りかかった。
    「こんなところで、お前さん、何をしているのかね?」
    声をかけられて顔をあげると、職人風の男だった。彼は事情を話した。
    「そうか、そういうことなら私が世話してやろう」
    「ほんとうですか?」
    「嘘はいわん」
    こうして、どうやら野宿寸前で職を拾うことができたのである。それにしても有難いのは他人の情である。しみじみと、彼はその有難さをかみしめたことだった。
    皮肉な一幕
    昭和十二年、十三年、十四年と彼の工場は成長し続けた。しかし、十四年の末ごろから経済界の状勢は目に見えてかわって来た。軍需工業動員法が公布されたのは昭和十二年九月のことだが、以来、民間企業は続々と軍需産業へ転向しつつあった。まるで軍需工場でない工場は工場ではないかの感がある。
    さらに昭和十四年、設備制限令が出て、民間企業はとどめを刺された形となった。軍需工場でないかぎり、立ちいかなくなったのである。彼の工場でも、これによる影響は甚大だった。註文量は段落を描いて落ち、最早このままではダメになることは目に見えていた。昭和十六年、太平洋戦争が勃発―
    かくて、軍需製品の生産へ彼もまた転換のやむなきに至った。飛行場などの建設に使用するロードローラーの歯車をつくる仕事である。ロードローフー工場を親会社とし、そこに歯車を納入するだけであるから、自由経済の困難さはない。命令された通りにつくり、納めればよいからである。
    太平洋戦争は激化し、十九年ごろから国民の目にも敗色濃いことが明瞭になった。本土空襲が始まったのだ。都内住宅の強制疎開や各工業都市の工場疎開が開始された。
    川口の彼の工場もどこかへ移らねば危い。そう感じた彼は、適当な疎開地を探した。川口から四キロほど離れた根岸というところに山がある。そこがよかろう、ということになると、さっそく重要な機械類から移しはじめた。
    そのころになると、徴用されてしまってトラックがない。運ぶなら馬車である。しかたがなく、彼は馬車と馬とを買った。馬車による輸送ですらも、思うようにならなくなっていたからである。
    山の麓に穴をあけ、その中にトロッコが出入するようになるまで数ヶ月。さらにその中にバラックの半地下工場をつくり、やっと体制がととのった。機械を設置し、軍の証明をもらって電線を引き、その他さまざまな苦労を重ねて九分通り疎開は終った。
    さて、いよいよ明日から作業開始である。さあ仕事だ。ところが皮肉なことに、その日が入月十五日であった。終戦である。
    この皮肉な出来事に彼がどんな気持であったか、もうくわしくいう必要はあるまい。重要なことは、この疎開で蓄えを費い果し、再びゼロから出発しなければならなかったことである。
    川口に一棟残った工場へ、再び機械類を運び返し、ありあわせの資材でつくり始めたのが農器具だった。徴用のがれの目的で彼の工場で働いていた八百屋、床屋などの素人職工は全部やめたが、ベテラン職工も一人、二人と帰って来たので、それほど人手不足は感じないですんだ。
    戦後の一時期は、物の形をしておれば何でも売れた。農器具も同様である。売れゆきが好調であるから傷の回復もはやい。昭和二十二年には株式組織に改め、その翌年ごろから本来の仕事、歯車の生産に切り替えていった。それでも、農器具を完全にやめたのは昭和二十四年、朝鮮動乱勃売の前年だった。
    まさに絶好のタイミングであった。我が国最大の歯車メーカーとなる
    戦前からの目標の一つは川口で生産されるあらゆる機械の歯車を、彼の工場で全部つくれるようになることであった。戦争でやむなく中断したものの、いまこそその時が来たのである。
    関東一円、およびその以北、北海道までの地域で、戦後、歯車を生産し始めたのは彼の工場が一番はやかった。目標の達成は時間の問題であるかに思われた。
    しかし、間もなく同業者も彼の跡を追い始め、実際上、あらゆる歯車をつくるというわけにはいかなくなったが、加工業者としては我が国最大の規模と、最高の技術を有する歯車メーカーとなるのである。
    朝鮮動乱以後、彼の企業がどういう風にしてそこまで成長するのか、つぶさに語ることは別の紙聞にゆずりたい。本書の目的が、我が国最大の歯車専問メーカーを、裸一貫から育てあげた小原富蔵の人聞を語ることにあって、特定企業の歴史をたどることではないからである。

    そしてその目的は以上でほぼ達成されたと筆者は信じている。以下、今日までの歩みを重要な点のみ略記することにしょう。
    第一次五ヶ年計画で、昭和三十年から新工場の建設準備をはじめた。農器具で得た利益を投入し、仲町に千坪の土地を買い、そこを予定地とする。昭和三十五年から第二次三ヶ年計画で、さらに設備投資をふやした。昭和三十九年、仲町工場が完成。第三次の計画も立てたが、実際上は中断した。設備投資のため、他人資本が増大し、自己資本率が二割まで下ったからである。彼は危険な兆候を読んだ。このまま行けば経済界の変動で、いまに失敗する。世間の投資家のみならず、大企業も所得倍増とやらに煽られて投資に投資を重ねているときである。
    「ここで中断しては、結局、敗北ではないか?」
    そんな疑念が脳裡をかすめないではなかったが、彼は思いきって投備投資を中止した。このカンは見事に当った。大勢に押されて、そのまま続けていたとしたら、今日の小原歯車工業(株)はなかっただろう。以来、せっかく建てた三階建のビルを他に貸すなど、自己資本の回復につとめ、いまではそれが四割五分
    までになったという。
    現在、小原歯車工業側は年商約二億、総資本に対する利益率は一〇~一五パーセントで、優秀である。経営法としては彼独自の販売先三分法で、大企業 、中小企業 、見込生産の標準歯車 で、景気変動に対する調整をとっている。
    なお、最後に、市会議員に三度も当選の経歴があることをつけくわえておこう。一回目が昭和二十六年、二回目が三十年、三回目が三十四年。昭和三十八年に三度目の任期を了えて、その後、考えるところあって立候補しなかった。おそらく、政治と事業の二足わらじを履くことの危険を感じたからだろう。
    その他、川口機械工業協同組合理事長、日本歯車工業会常任理事など、公職で果した仕事も決して小さくはない。
    おわり